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2012年3月 3日 (土)

あるレジ打ち女性のはなし

【あるレジ打ち女性の話】・・・・・・・・・・・・
 その女性は、何をしても続かない子でした。
 田舎から東京の大学に来て、部活やサークルに入ったのは良いのですが、すぐにイヤになって次々と所属を変えていくような子だったのです。
 そんな彼女にも、やがて就職の時期が来ました。
 最初、彼女はメーカー系の企業に就職します。ところが仕事が続きません。勤め始めて3ヶ月もしないうちに上司と衝突し、あっという間にやめてしまいました。
 次に選んだ就職先は、物流の会社です。しかし入ってみて、自分が予想していた仕事とは違うという理由で、やはり半年ほどでやめてしまいました。
 その次に入った会社は、医療事務の仕事でした。しかしそれも『やはりこの仕事じゃない』と言ってやめてしまいました。
 そうしたことを繰り返しているうち、いつしか彼女の履歴書には、入社と退社の経歴がズラっと並ぶようになっていました。
 すると、そういう内容の履歴書では、正社員に雇ってくれる会社がなくなってきます。
 ついに、彼女はどこへ行っても正社員として採用してもらえなくなりました。
 だからといって生活のためには働かないわけにはいきません。
 田舎の両親は早く帰って来いと言ってくれます。しかし、負け犬のようで帰りたく、ありません。結局、彼女は派遣社員に登録しました。
 ところが、その派遣も勤まりません。すぐに派遣先の社員とトラブルを起こし、イヤなことがあればその仕事をやめてしまうのです。
彼女の履歴書には、やめた派遣先のリストが長々と追加されていました。
ある日のことです。新しい仕事先の紹介が届きました。
それは、スーパーでレジを打つ仕事でした。ところが勤めて1週間もすると、
彼女はレジ打ちに飽きてきました。
 ある程度仕事に慣れてきて、『私はこんな簡単な作業のためにいるのではない』と考えだしたのです。その時、今までさんざん転々としてきながら我慢の続かない自分が、彼女自身も嫌いになっていました。
 もっとがんばるか、それとも田舎に帰ろうか。
 とりあえず辞表だけ作って、決心をつけかねていました。
 するとそこへ、お母さんから電話がかかってきました。また田舎に帰ってくるよううながされ、これで迷いが吹っ切れました。彼女はアパートを引き払ったらその足で辞表を出し、田舎に戻るつもりで部屋を片付け始めました。
 長い東京生活で、荷物の量はかなりのものです。あれこれ段ボールに詰めていると、机の引き出しの奥から手帳が出てきました。小さい頃に書き綴った自分の大切な日記でした。無くなって探していたものでした。
 そして日記をパラパラとめくっているうち、彼女は、『私はピアニストになりたい』と書かれているページを発見しました。
 そう、彼女の小学校時代の夢です。
 『そうだ。あの頃私は、ピアニストになりたくて練習を頑張っていたっけ』と、彼女はあの時を思い出しました。彼女は心から夢を追い掛けていた自分を思い出し、日記を見つめたまま、本当に情けなくなりました。
 『あんなに希望に燃えていた自分が今はどうだろうか。なんて情けないんだろう。そして、また今の仕事から逃げようとしている…』
 彼女は静かに日記を閉じ、泣きながらお母さんに電話したのです。
 『お母さん、私、もう少しここでがんばるね』
 彼女は用意していた辞表を破り、翌日もあの単調なレジ打ちの仕事をするために、スーパーへ出勤していきました。ところが『2、3日でもいいから』と頑張っていた彼女に、ふとある考えが浮かびます。
 『私は昔、ピアノの練習中に何度も何度も弾き間違えたけど、繰り返しているうち、どのキーがどこにあるのか指が覚えていた。そうなったら鍵盤を見ずに、楽譜を見るだけで弾けるようになった』
 彼女は昔を思い出し、心に決めたのです。
 『そうだ、私は私流にレジ打ちを極めてみよう』と。
 そして数日のうちに、ものすごいスピードでレジが打てるようになったのです。すると不思議なことに、それまでレジのボタンだけ見ていた彼女が、今まで見もしなかったところへ目が行くようになりました。
 最初に目に映ったのはお客さんの様子でした。
 『あぁ、あのお客さん、昨日も来ていたな』
 『ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ』とか、いろいろなことが見えるようになったのです。
 そんなある日、いつも期限切れ間近の安いものばかり買うおばあちゃんが、
5,000
円もする尾頭付きの立派な鯛をカゴに入れてレジへ持ってきたのです。
 彼女はビックリして、思わずおばあちゃんに話しかけました。
『今日は何かいいことがあったんですか?』
おばあちゃんは彼女に、にっこりと顔を向けて言いました。
 『孫がね、水泳の賞を取ったんだよ。今日はそのお祝いなんだよ。いいだろう、この鯛』
 『いいですね。おめでとうございます』.
うれしくなった彼女の口から、自然な言葉が飛び出しました。
お客さんとコミュニケーションをとることが楽しくなったのは、これがきっ
かけでした。
 いつしか彼女は、レジに来るお客さんの顔をすっかり覚えてしまい、名前まで一致するようになりました。
 『〇〇さん、今日はこのチョコレートですか。でも今日はあちらにもっと安いチョコレートがでてますよ』
 『今日はマグロよりカツオのほうがいいわよ』などと言ってあげるようになりました。レジに並んでいたお客さんも応えます。
 『いいこと言ってくれたわ。今から替えてくるわ』
 そう言ってコミュニケーションをとり始めたのです。彼女はだんだんその仕事が楽しくなってきました。
 そんなある日のことです。
 『今日はすごく忙しい』と思いながら、彼女はいつものようにお客さんとの会話を楽しみつつレジを打っていました。すると店内放送が響きました。
 『本日は大変に混みあいまして申し訳ございません。どうぞ空いてるレジにおまわりください』
 ところがわずかな間をおいて、また放送が入ります。
 『本日は混みあいまして大変申し訳ありません。重ねて申し上げておりますが、どうぞ空いているレジのほうへお回りください』
 そして三回目、同じ放送が聞こえてきた時に、はじめて彼女はおかしいと気づきました。
 そして、ふと周りを見渡して驚きました。
 どうしたことか5つのレジが全部空いているのに、お客さんは自分のレジにしか並んでいなかったのです。店長があわてて駆け寄ってきます。
 そしてお客さんに『どうぞ空いているあちらのレジへお回りください』と言ったその時です。
 お客さんは店長の手を振りほどいてこう言いました。
 『放っといてちょうだい。私はここへ買い物に来てるんじゃない。あの人としゃべりに来てるんだ。だからこのレジじゃないとイヤなんだ』
 その瞬間、彼女はワッと泣き崩れました。
 その姿を見て、別のお客さんが店長に言いました。
 『そうそう。私たちはこの人と話をするのが楽しみで来てるんだよ。今日の特売はほかのスーパーでもやってるよ。だけど私はこのお姉さんと話をするためにここへ来てるんだ。だからこのレジに並ばせておくれよ』
 彼女はポロポロと泣き崩れたままレジを打つことが出来ませんでした。
 はじめて、仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと気づいたのです。
 そうです。すでに彼女は昔の自分ではなくなっていたのです。
・・・・・・・・・・・・
 その後、彼女はレジの主任になって、新人教育に携わったそうです。
 彼女から教えられたスタッフは、仕事の素晴らしさを感じながら、今日もお客さんと会話していることでしょう。
 その後、彼女の履歴書がどうなったかは、誰も知りません。
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『涙の数だけ大きくなれる』 ~木下晴弘著書、フォレスト出版より~

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